歴史的背景と趣旨

江戸上り(えどのぼり)とは

1609年、琉球王国は、薩摩(今の鹿児島県)から軍事侵攻を受け、敗北。琉球は薩摩藩から実効支配を受け、江戸幕府に従属することになりました。その後、琉球王国は、国王即位後に「謝恩使(しゃおんし)」を、江戸幕府の将軍代替わり後には「慶賀使(けいがし)」を、それぞれ江戸幕府へ派遣することを義務付けられました。「謝恩使」は国王の即位を江戸幕府へ報告し幕府が承認することに謝意を表する使節、「慶賀使」は新将軍の就任を祝うための使節です。江戸へ赴く際には、この謝恩使・慶賀使一行のほか、儀礼の場を整え深みをもたせるために芸能・書・詩歌等に秀でた若者たちも同行しました。こうした琉球使節の江戸参府、外交儀礼が「江戸上り(琉球王国史料上の表記は江戸立)」です。川崎宿起立から11年後の1634年(寛永11年)に始まった「江戸上り」は江戸時代を通じて計18回行われました。

 琉球から海を越え、薩摩、瀬戸内海、大阪からは淀川を遡り、陸路で東海道から江戸まで、片道約半年、その距離約2000km。薩摩・江戸幕府の命を受け初夏に琉球を出発した琉球使節一行は、過酷な長旅を経て、見知らぬ冬の江戸で王国の威信をかけて外交諸行事に臨んだのです。ですが、琉球王国は、この強制的な外交儀礼を逆に利用し、大和(日本の古称)文化芸能見聞の成果を自国の国力向上につなげ、また王国が誇る選りすぐりの人材を派遣することで江戸そして道中津々浦々に琉球王国の品位を知らしめようとしたとする見方もあります。

 琉球使節は長い道中で様々な人々と出会い、文化的交流で教養を高め合い、大いに見識を広めていきました。また、様々な政治的駆け引き思惑が交錯する旅ではありましたが、華麗な衣裳で御轎(うちゅう:琉球式の輿)や大名駕籠に乗った正使や副使、騎乗の琉球使節一行の姿は街道沿いの人々を魅了しました。

 とくに耳目を集めたのは路次楽(るじがく)と楽童子(がくどうじ)。路次楽は琉球使節行列の前列に配された楽隊で中国伝来の道中楽を演奏しました。楽童子は琉球士族から眉目秀麗で芸才ある若者が選ばれ歌舞音曲を披露しました。

川崎宿と江戸上り

東海道五十三次の宿場町である「川崎宿」は、琉球使節団が江戸へ入る直前の重要な中継拠点として機能していました。琉球使節が利用した本陣はその時々の事情により変わりましたが、川崎宿の本陣に琉球使節が宿泊あるいは休憩したという記録は残されています。本ページでは、川崎と沖縄を結ぶ歴史的背景についての解説を順次公開してまいります。

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