江戸立(琉球使節江戸参府背景)

使節事始(歴史的背景と趣旨)

江戸時代、琉球王国が王国の威信をかけて江戸幕府へ派遣した外交使節「江戸上り(えどのぼり/琉球史料表記:江戸立)」。片道約半年、往復1年に及んだ長旅と、東海道の宿場町「川崎宿」との関わり、そして大正時代以降に川崎の地で花開いた沖縄伝統芸能と100年の絆について紐解きます。

琉球使節の威信をかけた「江戸上り(江戸立)」とは

慶長14(1609)年の薩摩藩侵攻以降、琉球王国は幕藩体制の枠組みに組み込まれつつも、独立した異国としての体裁を保ち続けました。その外交儀礼として行われたのが、琉球国王即位の折に謝意を示す「謝恩使(しゃおんし)」と、江戸幕府の徳川将軍代替わりを祝賀する「慶賀使(けいがし)」の江戸参府です。寛永11(1634)年から嘉永3(1850)年に至る約216年の間に、使節団は計18回(尚寧王参府を含めると19回)派遣されました。

首里城を出立した使節一行は、那覇から薩摩、瀬戸内海を経て大坂に入り、淀川を遡ったのち、陸路東海道を歩んで江戸へと向かいました。その道程は片道約半年、距離にして約2,000kmに及ぶ過酷な旅路でした。初夏に琉球を発った使節たちは、冬の江戸城で将軍への謁見(進見之儀)や国書伝達に臨みました。

使節団の主要な役職と編成
  • 正使・副使: 王族(王子)や三司官クラスの高官が任ぜられ、御轎(うちゅう=琉球式の輿)や大名駕籠に乗り、使節団の主賓として威容を示しました。
  • 掌翰使(しょうかんし): 琉球国王から老中への親書(国書)を書翰箱に収めて携行し、文書外交を司る官人。程順則ら漢文学と能書に長けた知識人が担いました。
  • 儀衛正(ぎえいせい): 宿駅の発着や登下城、街道行進において、先頭の路次楽隊や儀仗(旗・武具)の隊列全体を統括・指揮(下知)した要職です。
  • 路次楽(るじがく)と楽童子(がくどうじ): 先頭で行進曲を奏でた路次楽、そして江戸城内で御座楽や古典舞踊を披露した楽童子(士族の美少年)の至芸は、街道津々浦々の人々を魅了しました。

幕府や薩摩藩が異国支配の威勢を天下に誇示する側面を持たせた一方で、琉球王国側も選りすぐりの知識人や実演家を派遣することで王国の高い文化水準と品位を天下に知らしめ、旺盛に見聞を広めて自国の国力向上へと昇華させました。

東海道の宿場「川崎宿」と使節団の足跡

元和9(1623)年に開設された東海道川崎宿は、江戸への旅路の終盤、六郷川(多摩川)を渡る手前に位置する宿場町でした。琉球使節団の道中においても、川崎宿の本陣や旅籠を利用して宿泊や休息(昼小休)を取った記録が残されています。

宿駅の発着や街道行進の折には、路次楽の銅鑼や哨吶(チャルメラ様楽器)による異国情緒あふれる調べが鳴り響き、沿道に詰めかけた町人たちを驚嘆させました。一行は川崎宿を経て六郷の渡しを越え、品川宿、そして江戸の滞在拠点である薩摩藩邸へと進んでいきました。

かつて使節団が街道に遺した文化の足跡は、単なる通過点にとどまらず、のちに大正時代以降、多くの沖縄出身者が川崎へ移住し伝統芸能を根付かせていく歴史の伏線となっていきました。

400年の時を紡ぐ「川崎と沖縄の100年」

川崎と沖縄の結びつきは、江戸時代の外交儀礼にとどまりません。大正時代以降、京浜工業地帯の発展に伴い多くの沖縄出身者が川崎へ移住しました。厳しい生活環境の中で同胞を励まし、心の拠り所となったのが、ふるさとの民謡や琉球古典芸能でした。

歴史の血脈:寛永使節から現代へ

寛永7(1630)年に琉球使節として江戸へ上った高官・城間親雲上清信。その末裔であり、大正13(1924)年に川崎へ移住した米須清仁 氏は、1949年に「川崎沖縄芸能研究会」を創設し初代会長を務めました。また、1927年に川崎で芸歴を開始し、沖縄(那覇市首里)へ帰郷後、途絶えていた路次楽を1977年に手探りで復元させた阿波連本啓 氏など、先達の情熱によって伝統芸能の種がこの地に蒔かれました。

昭和25(1950)年には多文化共生の殿堂となる川崎市教育文化会館にて「第1回沖縄芸能大会」が開催され、川崎沖縄県人会や川崎沖縄芸能研究会が受け継いできた「沖縄民俗芸能」は、現在、神奈川県および川崎市の重要無形民俗文化財に指定・認定されています。

大正時代の移住から100年を超え、令和8(2026)年の「川崎市・那覇市友好都市提携30周年」および「首里城正殿復元完成」を迎えた今。先達が歩いた東海道川崎宿の地で、残された絵画資料などを手がかりに失われた衣装や道具の再現に挑み、市民一体となって歩む「川崎宿江戸上り行列」は、地域に根付いた歴史的絆を未来の多文化共生社会へとつなぐ挑戦です。

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